考えてみれば不思議だ。昨日書いた田村正和の話。(1コ下のコラム)

例えば。
コカコーラの映像を刷り込むこと=購買意欲の促進効果。 まあ、これはいい。コーラの用途・存在意義は飲まれることなわけであるからして、この刷り込みから「飲みたい」以外の欲求が生じることは、まずない。宗教も同様。「修行するぞ」と連呼されれば、その意図が過不足なく刷り込まれるわけで、聞き手に対して他の欲求を喚起することは、まずない。プリンを食べたくてタマらなくなるとか。

ところが、田村正和の場合はどうだろう。

「こんばんは、田村正和です。」

この文字の意味するところは、単なる自己紹介に過ぎないはずだ。これが知らない人の名前、例えば後藤嘉男であるならば、「そうですか、僕は〜と申します。どうぞよろしくお願いします。」で終わるだろう。

なのにこの「田村正和」という文字の、口の端に乗せてみたくなる感覚というのはどうだ。なんかこう、抗しがたい魅力・呪力を感じる。

「こんばんは、田村正和です。」

気付けばそこには、モノマネさえしている自分がいるわけだ。我々日本人は、実は既に色々なことを刷り込まれ済みなのかも知れない。

「どーもー、三宅祐司でーす」
「白鳥麗子でございまーす」
「イッコン、ニーコン、サンコンでーす」