よく洋楽や映画の「通」の人と話をしていて、どんなモノが好みなの?とか訊かれると言葉に詰まってしまう。ぼくがいかに「通」なモノを持ち出せるのか、力量を計られているような気分にさせられてしまうからだ。

もしここで下手に有名なモノの名前を出したとしたらきっと、向こうは落胆とも軽蔑ともつかない微妙な表情を浮かべて「ふーん、そうかぁ」と言い、会話はそこで終わってしまうことだろう。ここでまちがっても『シックス・セソス』とか『エリック・プランクトン』なんてものは挙げてはいけない。第一それは名前がまちがっている。

で、ぼくはこういう場合、ミアスタロキ監督の『桜桃の林を抜けて』の名前を挙げることにしている。

すると大抵の場合、相手は身をググッと乗り出して「どういう映画だったっけ?それ。」といろめき立つ。でもそこは、「うーん。何というか、割と難解なんで、なんとも説明のしようのない映画だよね」とか言うしかない。実際の話、そんな監督や映画は存在しないので説明のしようがないのだ。

くだらない話はともかく。

この、「通」の人の持つ、「メジャーなもの」に対する軽蔑というか嫌悪感というのは果たしていかがなものなんだろう。下手に『タイタニップ』とか挙げようものなら、即・ダメの烙印を押されかねない勢いである。しかもまた名前がまちがっている。

= = =

人が自己を評価をする上で、他人を低く置くことで相対的に自己の価値を高める、という手法がある。

「通」の人たちのメジャー嫌いには、こういった要素が多分にあるように思われる。しかしこれは、音楽の趣味という一面的な部分で、全人格の評価までしてしまう可能性を孕んでおり、非常に危険なことであると思う。

えてして彼らは「みんなミーハーな、音楽的レベルの低いモノを聴いてんじゃねーよ」みたいな物言いをする。「もっと成熟しようぜ」のような。

しかし文化的関心のベクトルは人によって様々なので、音楽や映画といった狭い分野だけでその人の評価を下してしまうのは、決定的に間違っているように思われる。つまり、音楽にはテンで疎いが絵画に関しては造詣が深い人だっている、ということだ。現に、服飾デザイナーのヴィヴィアン・ウエストウッドは映画を観ないことで有名だし、エンヤやエディ・ヴァン・ヘイレンといった世界に名だたるミュージシャンも、自分の作ったもの以外は一切聴かないそうである。

例えばあなたがキャプテン・ビーフハートなどを聴くような、割かしコアな音楽ファンだったとしよう。それをいきなり美術に詳しい人に腕をつかまれて、「あなたの持っているキティちゃん柄の巾着は何ですか。そんな低級なデザインで満足するとは嘆かわしいばかりです」と言われ、岸田劉生『麗子像』の柄に変えられてしまったらどうだろう。それはまったくもって余計なお世話なんではないだろうか。

やはり、こだわりの方向は人それぞれで良いんだろうと思う。(こだわっているが故に、いろいろ言いたくなる気持ちもわからなくはないが)

= = =

しかし一方で。食文化にこだわる人のイラ立ちがだけは何だか理解してあげたい気がしている。

美食、というと聞こえは悪いが、食は健康の源であり、音楽や映画よりはずっとこだわらなければならない分野のはずだ。なのに、世の人々は悪性の添加物がたっぷり入ったモノを食い、限度を超えて酒をあおっているのだ。

我々は音楽や映画などの文化で通ぶっている場合ではない。それよりもまずは健康である。健康に生きていなければ、その他の文化を享受することもかなわない。そしてその源泉は食にあるのだ。

だから今度「どんな音楽を聴くの?」と訊かれたらぼくは、「そんなことよりもピーマンとニンジンは残さず食え」とお答えしたい。

振り返ってみると、今日の日記はひたすら自分へのメッセージだった気がする。