「あなたの幸せのために、祈らせてください」

昔から、街を歩いているとその手の人たちからよく声をかけられる。相手を黙祷させた上で額に手をかざして祈る、どこかの宗教の活動家の人だ。あれは高校の頃だったか、Yという友人と買い物に行った際にも、やたらハキハキしゃべる大学生風のお兄さんから声をかけられたのだった。

ああまたか・・・
ぼくは断りごとをするのが苦手なのでモゴモゴと口ごもっていたのだが。その時、隣にいたYがおもむろに言い放ったのであった。 「わかりました。そのかわり僕もあなたを祈っていいですか?」

急に何を言い出すんだおまえは。ぼくはすっかり困惑してしまったのであった。俺にも祈らせろって、そんな話の持って行きかたがあるか。そもそも誰に祈るというんだ。だって当時のYが崇拝していたのはアイドルの渡辺美奈代さん。人類の繁栄とか世界平和とか、その手の力を渡辺さんが司っているとは思えない。

しかし周りの狼狽ぶりなど意にも介さずYはテキパキと指示を出す。「ではまずこちらから先に祈りますから」 「僕がハイと合図するまで黙祷してもらえますか?」

躊躇する大学生風。でもその間、きっとノルマとかいろいろなものが頭の中を巡ったんだろう。こちらをチラと見つつ、結局彼はOKを出したのだった。よほどぼくが救済すべき人材に見えたのに違いない。慧眼である。

かくしてその禍々しい儀式は幕を開けた。目を閉じる大学生風。呆然と成り行きを見守るぼく。そしてYは…… Yは、あろうことか無言でぼくの手を引いてその場から逃げ出した。黙祷する大学生風を放置して、雑踏の中に隠れ、遠まきにウォッチしてやろうという魂胆だったのだ。

人波の中でただひとり立ちつくす大学生風。口の端を毅然と結び、その瞼は重く、静かに閉じられている。歩道橋の上からそんな彼のつむじを見下ろしながら、ぼくは、やっぱこいつを幸せにするのは無理だわと思った。

= = =

この件の数ヵ月後のこと。再びこのお兄さんに声をかけられる機会があった。しかし彼はこちらの顔は覚えていない様子。その時はぼくはひとりだったので、断ることもできず言われるがままに祈祷されちゃったわけだが。

しかしである。いま思い返してみると、当時の自分にとって幸せを感じる瞬間って

  • ラジオで投稿ハガキが読まれたとき
  • 先生や級友のモノマネが周囲にウケたとき
  • 教科書に落書きしたパラパラ漫画が意外なほどスムーズに動いたとき
  • 通りすがりの商店街のパン屋から焼きたてのパンの匂いがしてきたとき

こんなのばかりだった気がするのだ。すごいスケール小さい。わざわざお祈りなんかしてもらっちゃって恐縮である。だって人類救済の類とはおよそ対極を行く地味さ加減じゃあないか。パンて。

あれから幾年もの時が経ち、ぼくもそれなりに年をとった。「果たして自分はいま幸せなんだろうか」なんてことを、時々考えたりもする。そしてそんな時、人々を幸福に導くべく奔走していた彼に思いを馳せるのである。幾重もの時を重ね、彼の願いは天に届いただろうか。

どうか彼が腕利きのパン職人になってますように。
 
 
 
(かしおり)

揺れる映像が苦手だ。ブレアウィッチプロジェクトとか岩井俊二の作品とか、画面がグラグラするタイプの映画を見るとすぐに酔ってしまう。先日、とある映画の試写会に行ってきたのだが、やはりちょっと酔ってしまった。おかげで作品の内容をほとんど把握できていない。

クライマックスに豪快なアクションシーンがあったことだけは断片的に覚えてる。斬新なカメラワークがずいぶんと印象的だった。おかげで客席はもう、アドレナリンが逆流するような興奮で画面に釘づけだったようだ。しかし、その時ぼくはトイレに釘づけで、胃液を逆流させていた。

上映が終わると、劇場出口ではCM用のテレビカメラが観客の感想コメントを収録していた。あの手のCMを見ていつも思っていたのだが、皆、感動したにしては表現があまりにも淡泊ではないだろうか。皆、まるで口裏を合わせたかのように「ちょー泣けましたぁ」とか「涙が止まらなかったぁ」とか言うのだ。

私は、自分なりの分泌物で感性の多様なあり方を提示していきたい。

今日は所用があって原宿へ行った。
ついでなので、「ちょうどバーゲンシーズンだしちょっとショッピングでも」と洒落こんではみたのですが。

ぼくは身長の割にヒョロ細いので、なかなかサイズが合うものが見当たらずにいつも難儀する。今日もいろいろ探し回ったが、この貧相な身体にフィットする服はほとんどなかった。結局、安物の古着だけ買って帰った次第。(でもいいのだ。現代はリサイクルの時代だし、古いモノにこそ味がある。高校生の制服など驚くような高値で流通してるではないか)

それにしても原宿はさすがに原宿である。感心しましたよ。それこそみんな雑誌から抜け出したようなセンスいい恰好をしていて、ファッション誌で云うところの「要注目のカリスマブランド」とか「裏原おしゃれ最前線」とか、ああいう世界観を実にスマートに体現してるんである。対するぼくはと言えば、ボロボロの古着姿がみすぼらしくてせいぜいTIME誌がいいとこ。「厳冬下の難民に衣料援助」等。
つまり、どう見ても浮いていたんである。ここは自分のような者が近寄ってよい街ではなかった、と大いに反省したのでした。

しかし。そうして反省してみせるぼくに、今日の東京はとことん冷たい。昼食を摂った時もそうだ。レストランでポークカレーを頼んだところ、解凍も充分でない生焼けのポークを提供されたのだ。

詳しくは知らないが、豚肉は生で食すと非常に危険だと聞いている。雑菌や寄生虫のために十分に火を通さなければならないはず。なのに目の前に盛られたのは、生焼けの豚。

ファッション雑誌っぽく言えば、激レア・超ヤバ目アイテムである。

気づかずそれを口にして、あまりの違和感にオェと吐き出したぼくは、お店の人を呼んで事情を相談した。事情を聞いて店員もエラく動転した。そして動転しながらぼくの吐き出したものを指差して、言ったのだった。「すみません、すぐに焼き直しますから」

本文冒頭で「リサイクルの時代だし古いモノにこそ味がある」と申し上げたが、一度吐いた肉だけは勘弁いただきたいと切に願った次第。これでは何かの罰ゲームみたいじゃないか。


今回の件でよくよく思い知らされました。やはり原宿は、ぼくなどが踏み込んでいい場所じゃなかったのだ。厳しく諭されたわけである。身の程をわきまえない者にファッションの街は徹底して冷たいのである。もう、超COOLなんである。


深夜、繁華街で若い女の子が悲鳴を上げている現場を通りかかった。地面にヘタりこみ泣き叫んで抵抗しているのを、屈強な男が手首を掴んで引きずろうとしてるではないか。

一度は車で通り過ぎたものの、犯罪の臭いというかどうにも捨て置けない雰囲気だったので、しばし迷ったあげく、助けに行くことにしたのでした。

註;ここで誤解しないでほしいが、ぼくは別にエエカッコをしたくて書いてるんじゃない。なにしろ、いざとなったら背負いで投げ飛ばしてやるつもりだったのである。女の子を。男に向かって。男があっけにとられて思考停止した隙に、自分だけ逃げ仰せようという算段である。しばし迷ったのは、非力なぼくが女性を背負えるのかどうかを見極めていたのだ
とにかくぼくは車を降りて、まずは注意をしに行くことにしたのだった。

何やら泣き叫ぶ女。言い返す男。深夜の水銀灯に浮かび上がる修羅場。一歩近づくごとに心臓が飛び出そうになる。やっぱりこのまま素通りしてしまおうか……

と。目線を合わせないよう俯きながら、現場まであと5mと近づいた瞬間である。その時はじめて、女性の言葉がはっきりと聞き取れたのだった。「まだ飲みが足りないっつってんでしょ!」

女性はドロドロの酔っぱらいだった。そして男性は、もうどこも閉まってるから風邪をひかない内に帰ろうよ、とすごくいい人。
かくしてぼくは本当に素通りをするハメになったのでした。

こういうのって本当に恥ずかしいというか自分に折り合いがつかないというか、タマらないものがある。勝手にカンチガイして勝手に盛り上がって、なんだかまるで馬鹿みたいではないか。(まるで馬鹿ではないようなことを言っているあたりが我ながらホンモノだ)
結局振り上げたコブシの持って行き場所を失ったぼくは、20m先に自販機の灯りを見つけ、「缶コーヒーを買うために車を降りた人を装えば不審な奴には思われまい」と考えつき、小走りで彼らの横を通り抜け、ただまっすぐに歩き続けたのでした。まっすぐまっすぐ、光だけを目指して。

ようやく辿り着いてみればそこには、カロリーメイト以外が売り切れだったり財布を車に置いてきたことが発覚したり、周到で地味な三段オチが待っており、オロオロ翻弄される三十男のひとり劇場を、自販機のあかりがぼぅと照らし出していた。


元旦、ひさびさに自宅のパソコンをいじっていたら、ボーッとして深刻なウィルスに感染してしまった。 ショックでコーヒーをぶちまけてしまった。

「福を逃さないように」という意味を込めて、元旦には掃除をしないのが古来からの習慣だと聞く。なのに今回は強制的に掃除をしなければならない状況に追い込まれてしまった。(服を拭き取るハメになったのも何かの符丁か)

そりゃ、自分には幸福が訪れない仕組みになっているのは分かってる。毎年、というか生まれてこの方ずっとそんなものだ。しかし「PCをウィルス感染させる→ショックでコーヒーをこぼす→やむを得ず掃除する→今年も福が来ないこと決定」というのは、福の神もずいぶんとやり口が回りクドくないだろうか?だいいち、手間をかけた割には得るモノが少なすぎるだろう。生産性に欠けるし効率も悪い。

つまり、普段ぼくが職場で言われているコトそのまんまである。
……そう思うと急にシンパシーというか、相通ずるモノを感じてきました。

「私は神に近づいた」

意味なく暴言に染まる初春である。


前回の日記。今見返してみると、なんかただ単に頑張りをアピールしたり愚痴をこぼしているだけのようで、相当に感じが悪い。読まれた方には申し訳なく思う。実際のところは、ぼくはそんなに一生懸命働いているわけではない。むしろその逆。仕事するのがイヤで、一日ボーッとイスに座り、ひたすら鼻毛を抜いたり爪を噛んだりしているだけである。

日がな一日、脱毛に爪の手入れ……
… ぼくがエステティシャンの道を選んでいたら、きっと相当なところまで行ったに違いない。適職を見極め損なったというワケか。忸怩たる思いで爪を噛まずにはいられない。

とにかくそんな状態なので、ぼくは社内で「あいつは大した給料泥棒だな」と囁かれている存在なのである。(泥棒にも天分があったのかと思うと、職業選択を間違ったことがますます残念でならない)

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前回の更新では、もうひとつ反省がある。自分があたかもモノ凄い高給取りであるかのように描かれている点である。これもこれで感じが悪い。

言い訳させていただくと、ぼくはそんなにお金持ちなわけではない。収入のすべては入院・治療費へと消えて行くからだ。このサイトを読んでくださっている方ならおわかりいただけると思うが、ぼくはよく倒れるんである。しょっちゅう病院のお世話になっている。その時に、平素の蓄財が生きてくるんである。そこでキチンとした治療を受ける。そして退院できた暁には、次に倒れた時の費用確保に向けて働くのだ。

そんなわけで、ぼくは別にお金持ちというわけではない。次回の入院の時に備え、過労で倒れるのも厭わず血を流しながら働いているだけだ。と偉そうに言ってはみても、実際は冒頭に述べたように鼻毛を抜いたり爪を噛んでるだけなんですが。

>過労で倒れるのも厭わず血を流しながら働いているだけだ

鼻毛を抜きすぎてうずくまる自分を想像。


仕事が忙しい。終電に駆け込むか、会社に泊まり込む日々が続いている。朝起きて通院電車に飛び乗り、夜は帰るなり倒れ込むように眠るだけの日々。このままでは何のためにお金を稼いでいるのかわからない。むなしい。

だから最近は残業が一時間経つ毎に、「この労働を時給に換算すると何が買えるか」を妄想して過ごしている。一時期村上龍が流行らせた、「あの金で何が買えたか」の発想であれる。過労で全身不具合だらけなのだけど、この妄想のおかげで、日々を気力でなんとか乗り切るように頑張っている。

ちなみにこの計算でいくと、先々週の残業ではティミー・パターソンの最高級サーフボードを買えるだけのお金を稼いだことになる。先週は金額に換算すると、ダイビングの道具を全部新調できるのと同額、働いたようである。

問題はぼくがサーフィンやスキューバにまったく縁がないことだろうか。実はティミー・パターソンが何なのかサッパリわかっていない。

なにしろ初夏の海はぼくに似合っていない。似合っていないだけではなく、碧く光る海〜その自然の雄大さは、この脆弱な身体から着実に生命力を削いでいくことだろう。

結局どんなに稼いだところで、部屋に籠もってCDを聴く以外の金の使い道が思い浮かばない。

ちなみに、今日は飲み屋を2軒はしごできる程度の額を一日で稼いだんだけど、飲みに行く相手のいないぼくにはこれでさえ無用の計算なのでありました。冒頭に書いたのとは別の意味で、何のために稼いでるのかわかりません。むなしさは加速するばかり。

今日ひさしぶりに仕事の合間に吐いたりしたのだが、もちろん、飲み会に思いを馳せてフライングしたんではない。